Author
粕本 晋吾
シンガポールオフィスのマネージングパートナー兼東南アジア地域統括責任者。ビジネスファンクションと戦略ソリューションに強みを持つ。
デジタルCXのトレンド
コロナ禍からの回復基調にある中、物理的世界とデジタル世界の境界線は、かつてないほどに曖昧になってきている。というのも、コロナ禍によって顧客との物理的接点を持つことができなくなり、世界中の企業がパンデミック環境によってもたらされた新しいルールに適応することが必要になった。その結果として、デジタル生存競争が加速されたからである。
顧客側のデジタル行動変化も、本来想定されていたスピード感よりも数年単位で加速されたと言われており、デジタル領域を含む顧客体験への期待値が上がり続けている。現代において、消費者の77%は、商品・サービスそのものと同じくらい、顧客体験を重視していると言われている。ここで重要なのは、新しいデジタル顧客体験は同業界他ブランドとの比較で評価されるのではなく、世界をリードするデジタルサービスプロバイダーが設定する基準に照らして評価されること。同業他社よりもデジタル顧客体験に秀でていること自体は、顧客観点からは大きな優位性にはならなくなった。
デジタル化という文脈では、オペレーション領域での効率改善が議論されることが多いが、デジタル顧客体験の強化も看過できない論点となっている。
グローバル市場
2022年に約1.5兆円とされている顧客体験マネジメント市場規模は、2029年には4.2兆円に達すると言われており、年率16.2%の成長が期待されている。コロナ禍によって、オフライン市場での投資落ち込みが見られたものの、それを補ってあまりあるオンライン市場での成長があったため、顧客体験マネジメント市場全体への影響は皆無だった。また、上述の通り、消費者の消費行動は根本的に変化している中、企業がオフラインとオンラインをまたいだオムニチャネルでシームレスな体験強化に継続的な投資を行うことは規定路線となっており、そのような企業によるAI・AR(拡張現実)の採用がさらに市場拡大を加速させることになる。
企業による取り組みは、顧客体験ソリューションへの投資に限ったものではなく、顧客体験を社内プロセス・評価システムでの新基準として設定するという潮流も加速している。実際、40%の企業が意思決定プロセスの1つとして顧客体験が活用され、75%の企業が評定やインセンティブ算出基準として顧客体験へのフィードバックを採用しており、また、85%の企業が管理職や一般従業員に対して顧客体験向上に向けたトレーニングを実施しているという統計結果も存在する。
コロナ禍によって、これまでオフラインチャネルで購入していた生活必需品をオンラインでの購入に切り替えることになった消費者のうち60%が、今後もオンライン購入を継続と言われており、パンデミックによる消費行動の変容は、一時的なものではなく、今後も継続・進化することが期待される。また、特に家計管理・旅行予約、また電気・水道・ガスといったライフライン管理などにおいては、オフラインの代替としてのオンラインではなく、消費者がオンラインを優先的に選択する傾向が顕著になっている。
また、顧客体験のデジタル化は、B2C領域に限ったものではなく、B2B領域においても顕著なトレンドとして現れており、B2B EC市場規模は2028年まで年率18.2%の成長が見込まれている。伝統的なB2B産業にあり、デジタル化とは無縁な環境にあった企業ですら、コロナ禍によりウェブサイト構築に着手したという事例も多数存在する。
ASEAN市場
ASEAN市場は、接続性の向上・政府主導の刺激策・テクノロジーの向上・企業による研究開発投資・デジタルネイティブ消費者層の増加などを背景に、デジタル顧客体験拡大における世界的なリーダーシップを取れる立場にあると言われている。デジタル顧客体験マネジメント市場も、2020年から2027年まで年率17.1%という急速な成長を見込まれている。このような市場成長への期待は、域内マネジメント層59%が、顧客体験マネジメントへの投資を加速させると答えていることにも裏付けされている。また、アジア全体では、5G接続・デジタル通貨導入・エッジデバイス・IoT・AI・スマートシティ領域において、グローバル全体の研究開発費50%、出願特許80%以上を占めており、デジタル化の最前線となっている。
一方、ASEANにおける最大の課題は、人材不足だと言われている。アジア全体では、2016 ~ 2018年にかけて、グローバルにおける科学・テクノロジー・工学・数学系分野での卒業生の76%を輩出しており、世界的なデジタル人材プールとなっている。しかし、その優秀なデジタル人材のほとんどが北米・ヨーロッパに奪われており、シンガポール人・マレーシア人・フィリピン人・インド人のデジタル専門家の約70%が、既に域外で働いているか、将来的に域外で働く計画があるという。
このような環境下にあり、域内企業マネジメント層は、デジタル化推進に際して、旧態依然とした既存社内システム刷新の遅れと並んで、組織内のスキルレベルの欠如を最大の懸念事項として挙げており、域内企業のデジタル領域での成功を阻む主要因となっている。テクノロジー・ソリューション・システムへの投資だけではなく、組織内人材への適切なデジタルトレーニングを提供すること、また、デジタル化を推進できる人材獲得に一層注力することが緊喫の課題となっている。
各産業における動向
<EC産業>
顧客体験デジタル化の中心的位置を占めるのは間違いなくEC市場である。ECプラットフォーム市場は、Lazada・Shopee・Tokopediaといった東南アジアECプラットフォームの成長・成熟によって牽引され、2015年から2019年の年間平均成長率が62%に達するという驚異的な成長を遂げた。この成長はコロナ禍により一層加速され、2019年から2020年にかけて市場は63 ~ 97%成長したと言われている。その浸透率は、域内消費者56%が、週一度以上の頻度でオンラインショッピングを行っているというデータにも現れている。
このような急激な市場成長を背景に、消費者のオンラインショッピングにおいては無数の選択肢が準備されるようになった。パソコン・モバイルといったデバイス選択から、ウェブサイト・アプリという媒体選択、メーカー公式EC・ECプラットフォーム・小売店ECというプラットフォーム選択がますます多様化する中で、複数チャネルをまたいだ顧客体験の最適化が優先課題となっている。さらに事態を複雑にしているのが、ソーシャルメディアの変容であり、ソーシャルメディアはプロモーションの場としての位置付けから「ソーシャルコマース」と呼ばれるEC販路としての意味合いを強めている。
消費者の消費行動変容やEC物流エコシステムの構築により、EC市場は全体として、今後も継続的に拡大することは間違いない。一方、各企業としては、上述の選択肢の多様化を背景に複雑性を増している顧客体験が、消費者の購買意思決定の阻害要因となっていることを認識すべきであり、これまで通りの断片的かつ普遍的な顧客体験の改善施策展開から離れて、消費者のショッピング体験のシームレスな統合やパーソナライズされたオファー提供を通して、目当ての商品発見と購入意思決定をより簡易にする施策が重要になる。
また、顧客体験のデジタル化に際して見逃されがちなのが、カスタマーサービス領域である。最先端のシステム・ソリューションを導入したところで、商品選択と購入プロセス途中で問題に直面することは避けられず、そこでいかに迅速かつ柔軟なカスタマーサービスを提供できるかが肝になる。オフラインチャネルではショップ店員に期待されていた機能を、オンラインチャネルでどのよう補完するのかという論点であり、AI活用が最も期待できる領域の1 つとなっている。
<ヘルスケア産業>
コロナ禍は、テレヘルス(遠隔医療)が世界的に普及するきっかけになった。ASEANにおいても、特にシンガポール・タイを中心に、今後も継続的に拡大すると言われている。テレヘルス領域は、オンライン診療だけに限定されず、モバイルヘルスアプリの浸透も進んでおり、域内70%の患者が自宅での健康管理のためにモバイルアプリを活用している。
テレヘルス領域においても、さらなる浸透に向けてはパーソナライズされたサービス提供が重要となっており、具体的には、患者ごとの事情に鑑みたカスタマイズドコミュニケーションおよびアラート機能の進化に重きが置かれている。また、将来的には、物理的に病院・医師が存在しない地域での医療アクセス拡大を可能にすることが期待されている。
<金融産業>
現段階における銀行サービスのデジタル化は、オンラインバンキング機能を活用した送金・着金管理という最も簡単な金融アクションを実行するためにデジタルチャネルを使用していることに過ぎない。今後は、銀行口座開設、ファイナンシャルアドバイザーへの相談、ローン手続き、クレジットカード申請など、より複雑なサービスにおける顧客体験デジタル化が期待されている。
ただ、完了までに多くのステップが必要となる複雑なトランズアクションにおいては、オンラインチャネルに限定したソリューション提供では超えられない障壁が多く存在するため、オフラインサービスと連動した顧客体験設計が肝となる。
また、ASEANでは、総人口のうち約5分の1が銀行口座以外のバンキングサービスを享受していない、つまり、金融商品の取り扱いがないことはもちろん、クレジットカードを保持しないUnderbanked状態にある。銀行へのアクセスが普遍的になっている他地域と異なり、銀行からのサービス提供を期待できない状況にあるからこそ、多くのデジタル金融サービスプロバイダーが市場参入しており、不足しているサービスを補完する役割を担っている。
具体的には、Stripe・Venmo・Revolutなどといった財務管理や決済を行うための代替的な第三者決済サービスが急成長している。また、タイでは、主要銀行が早くからQRコード決済によるユーザー間(C2C、B2C、B2B)の簡単な相互決済サービスを導入したことで、QRコード決済がキャッシュレスエコシステムの標準となっている。
デジタルCX注目領域
<パーソナライゼーション>
今後、企業・ブランドとの初めての接点が、デジタルチャネルで提供されるケースが増えていくことは間違いなく、購買プロセスだけではなく、潜在顧客と初めて接触した時点においてもパーソナライゼーションが担保されていることが重要になる。
一方、顧客がかつてないほどデジタルに精通するようになったことで、企業・ブランドとの接点・やりとりに対する期待も高まっている。テーラーメイド体験を設計するために分析すべき顧客データは、かつてないほど大量かつ多様になっているが、AI技術を活用することにより、膨大な顧客データから有益なインサイトを抽出し、顧客に合わせたパーソナライズド提案を提供することは以前よりも容易になった。今後、企業間の競争優位性の源泉は、このような顧客データを活用して、企業がどれだけ顧客のことを理解しているか、それがどのように顧客体験につながるかといった、「目に見えない便益」の提供になると推察される。これまで顧客ロイヤリティ向上活動の中心を担ってきた、普遍的なルールが設定されたポイントプログラムの重要性は相対的に下がっていくことは間違いない。
新しいビジネスモデルを追求する企業の多くは、最終消費者とのより強い関係構築に焦点を当てている。定期購読サービス・有料会員サービス・ワンストップエコシステムなどアプローチは様々であるが、より詳細な顧客データをより安定的かつ大規模に収集することによって、顧客ロイヤリティを維持・向上させるという目的は一貫している。
<AI>
顧客体験ソリューションにおけるAIの役割は、膨大なデータを整理・分析することを通して、消費者の将来行動予測を可能にすること、そして、行動予測に基づくパーソナライゼーション提案を可能にすることになる。
上述の通り、パンデミック以降、顧客によるロイヤリティ定義が変わったと言われている。より重要視されることになったのは「目に見えない便益」、つまり、「企業がどれだけ顧客を理解しているか」「より深い顧客理解がどのように顧客体験反映されているか」である。実際、デジタルチャネルでの消費者40%が特定企業・ブランドに対するロイヤリティを形成する最大のポイントとして「問題解決に役立つ企業」「ショッピング体験を容易にする企業」を挙げていることにも現れている。
このようなロイヤリティ構築・強化施策展開の上で不可欠なのがAIである。AIを活用することにより、企業は顧客との会話を分析し、顧客ペインポイントを理解することができ、それぞれの顧客固有の問題を解決するために、テーラーメイドのソリューションが生み出すことが可能になっている。
カスタマーサービスにおいても、AIは重要な機能を担っている。顧客93%が企業・ブランドに対して24時間以内の返信を、顧客89%が24時間以内の問題解決を期待していることに鑑みると、AI活用はカスタマーサービス対応のスピードアップと効率改善につながる。また、AIは多様な言語が存在するASEAN地域で特に有用になる。AIを通して、企業はローカル顧客に適した言語で対話することができるため、顧客は自身の問題点をより効果的に伝えることができ、企業による理解深化や適切な解決策提案に資する。
アジア全体でのAI関連支出は、2025年には約4.2兆円に達し、2020年から2025年の年間平均成長率は25.2%になると予想されている。この成長を牽引するのはB2B向けプロフェッショナルサービス領域で、その中でも、顧客問題解決を支援するカスタマーサービスソリューションとなっている。
<メタバース・AR・VR>
メタバース・AR・VRに代表されるバーチャルコマーステクノロジーは、オンラインショッピングを次のレベルに引き上げると言われている。これまで、消費者が店舗に足を運んで包括的なショッピング体験を得ることに対して、デジタルチャネルは主に購買プロセスに特化した役割を担ってきた。ECが拡大するにつれ、消費者はデジタルチャネルにおいても、単に購買するだけではなく、物理的な世界によくある相互作用や感情を再現するショッピング体験を期待するようになっている。
多くのブランドは、効果的な顧客データ収集のための、より多くのバーチャル接点の構築、さらには、ブランドエクイティを強化することを主目的とするバーチャルコマーステクノロジー活用に着手してきたが、直近では、より売上貢献につながる活動に移行しつつある。代表的な事例として、バーバリーはモバイルゲーム上でNFTコレクションを提供したり、コカコーラはNFTコレクションを初めてオークションにかけたりしたことが挙げられる。
一方、バーチャルコマーステクノロジー領域全体としては、美容・ファッション企業が最も積極的に取り組んでいる。これは、商品・サービスそのものがパーソナルな性質を有していること、バーチャルテクノロジー導入効果がより直接的にイメージされやすいことなどに起因している。
もちろん今後は、商品自体を3Dで可視化すること、店舗環境を仮想で再現することなどのバーチャルコマーステクノロジー採用が、業界を限定せずに進むと考えられ、オフラインとオンラインの相互作用の橋渡し役となることが期待されている。拡張現実を用いてモバイルカメラ上で再現された実寸サイズの家具を表示することで、特に大型家具購入時の採寸手間を省き返品率を減少させただけではなく、使用シーンをリアルに想起させることで顧客の購買意欲を高めたというIKEAはその代表例であろう。
現在までに、大手B2Cブランドの64%が、このような没入型体験(immersive experiences)への投資を開始しており、10年前のソーシャルメディア立ち上がり期と同様、5年以内にはほぼ全てのブランドが没入型体験を活用した販売・プロモーション施策を展開することになっているだろう。
サマリー
コロナ禍によって半ば強制的に加速された購買行動・顧客体験のデジタル化トレンドは、今後も不可逆的に継続されることは間違いない。また、欧米日地域に比べると従来手法が未成熟だったこと、域内にデジタルネイティブ世代を多く抱えること、数少ない成長市場としてグローバル企業の投資を集めていることなどに鑑みると、ASEAN地域での広まりはより顕著なものになるだろう。大量データを収集できるプラットフォームを有すること、大量データを効果的に分析できる仕組みがあること、分析結果に基づき迅速に改善策を実行できること、そして、それらのデジタル顧客体験強化に向けた一連業務を担える社内人材を採用・育成できることなどの観点での取り組みを強化し、適切なデジタル顧客体験を提供できるかどうかが、今後のASEAN市場での成功の鍵を握ると言っても過言ではないだろう。
おわりに
YCPグループでは、2011年創業以来、日本・ASEAN・中華圏を中心に世界17拠点・コンサルタント300名を有し、市場調査・戦略・オペレーション・マーケティング・M&A領域でのマネジメントサービスを各地で展開している。東南アジア地域を統括する立場にある私は、毎年100件を超える域内ビジネスに関する相談を受けている。
東南アジアでのビジネス展開に際しては、良くも悪くも成熟している日本国内事業との関連において、いかに日本での成功モデルを再現するのかが主論点となることが多い。成熟市場たる日本で確立された事業ノウハウを域内に持ち込むことによって、成功確率を高めることが期待され、大半の事業領域での正攻法であり続けている。
一方、本文で述べたCXを含むデジタル領域においては、そのようなアプローチが通用しなくなっている。というのも、デジタル化の波は国の発展状況に関らず東南アジアにも一様に押し寄せており、日本に追随する流れではなく、日本と同じか、一部の領域では日本に先行する時間軸で進行しているからである。
そもそも、デジタル領域では従来の仕組みに囚われない柔軟な発想が求められるものの、東南アジアにおいては、現地市場から学び、日本に先駆けた先行事例を作るという一層のゼロベース思考が肝要になると考えている。